鶴崎踊の由来

鶴崎踊には、しっとりと優雅な「猿丸太夫さるまるだゆう」と軽快なテンポの「左衛門さえもん」の二つの踊りがあります。
現在は、猿丸太夫を主に踊っておりますが、歴史的には左衛門の方が古く、 鶴崎では昔から左衛門のことを三つ拍子とも呼んでいました。
踊りの起源は、「大友記」「西国盛衰記」から推察しますと、遠く永禄3年のころ、西暦で言いますと1560年ころに遡ります。
時の豊後の国主大友義鎮おおともよししげ公(後の大友宗麟おおともそうりん公)は、一時遊興にふけって政治を省みないことがありました。
重臣の戸次鑑連べっきあきつら(後の立花道雪たちばなどうせつ)は、これを諌めようとしますが、なかなか会うこともできません。
そこで、面会の機会を作るため一計を案じ、京都から踊り子を招いて日夜踊らせ、それを聞いた義鎮公は、堅物の鑑連が踊り好きとはと不審に思い、見物に出かけました。鑑連は「三つ拍子」という踊りを踊らせ、義鎮公の機嫌のよくなったところで涙ながらに諫めたところ、忠言を聞き入れたとのことです。
この時の踊りが三つ拍子、左衛門の始まりと伝えられています。

時代は変わり江戸宝永年間、西暦1704年~1711年ころ、鶴崎は肥後熊本細川氏54万石の飛び地で、藩主の江戸参勤の発着地として、「波奈之丸なみなしまる」をはじめ百余艘の藩船が置かれ、京・大阪との交易の港町として大変繁栄していました。
このため、町民の気質は明るく、芸能も盛んであったようです。
当時、日本各地では伊勢参り「おかげ参り」が大変流行しており、鶴崎からも伊勢参宮に赴く者が相当におりました。
それら参団の人々が「伊勢踊」を覚えて帰り、風土と相まって盛んに踊られるようになり、当地に定着したものが「猿丸太夫」ではないかと言われております。

大友宗麟公像御座船鶴崎入港図(大分市歴史資料館所蔵)